冨樫とエミネムを応援する日記

ほぼHUNTERXHUNTERの感想

 保苅実 2

声の複数性、真理の不安定性などについて議論することをやめ、むしろそれを実際に実践し、本当に知を内破することに挑戦したのが本書である。

…語る立場によっていろいろな歴史があるけれど、歴史そのものは唯一の、一回限りの「真実」というものがある。どれが真の「客観的な」歴史記述なのかは、現実に起こった歴史や出来事をどれだけ忠実に語っているかによって決まる…というのが、高校生くらいまでの歴史の理解の仕方だと思う。そんで、大学生にでもなると「んー客観的っていうけど、それは過去なんだから、実際にはたどり着けなくね?」とか、E.H.カーを読んで、歴史とは選択と物語化による解釈にほかならない以上、過去と現在との対話であって、常に現在のうちで探索され、制作される。つまり「歴史=現在進行形の出来事」だぜ、となったりする。
さらに、みんな頭いいから、歴史は歴史学者が古文書館や研究室で行っている作業だけから生み出されるのではない、歴史なんてそこらじゅうにあるょ、とかも少しは理解しているし、素朴実証主義的な理解だけじゃなく、例えばアボリジニが「大地が白人に罰を与えた」と言ったときに、「あぁ、(あなた達の文化圏では)大地が罰を与えたのですね」と、その主張を受け入れる能力もある。加えて、アボリジニ社会が僕らの社会より劣っているとか、遅れているとは思っていない。僕らはその程度には文化相対主義や異文化尊重を実践できている。
歴史の多元性・声の複数性・真理の不安定性・主体の解体・二項対立の克服、、、正直聞き飽きてるし、僕らは表面的には理解している。しかし、保苅はそこにさらに踏み込む。どこまでその考え受け入れられる?「大地が白人に罪を与えた」「1924年の大洪水は長老が大蛇に依頼することによって起こった」という「事実」をまえにしたら、どうする?と。こんなの実証史学では当然門前払いの主張だし、オーラル・ヒストリーや心性史の歴史学者ですら、「事実」としては否定され、メタファーや神話といったものに位置づけて解釈されるだろう…。が、しかし、歴史を実践してるのは誰なのだ?と。大蛇が洪水を起こしたのは、アボリジニの歴史実践から生まれた「事実」として受け止めることはできないのか?と。

アカデミックな歴史学とは異なる場所で営まれている多様な歴史実践を、神話や記憶といった歴史の外部へと排除せずにとりあげる … 神話や記憶といったオルターナティブを示すことで、歴史の見せかけの相対性を誇張すべきではない。これはアカデミックな歴史の西洋近代性に何の影響も与えないだけでなく、ややもすると隠蔽しかねない。ここでの目標は、西洋出自のアカデミックな歴史(普遍的な「良い歴史」)と歴史学が受け入れられない歴史(普遍化されない「危険な歴史」)とのあいだに対話や共奏をうながす可能性を模索することにある。

アボリジニの歴史実践を「裁判の証拠につかえないようなのは近代歴史学的に没」と一蹴、排除するのとは別に、記憶や神話として解釈し、「それはそれで尊重する」という包摂にも注意が必要である。「歴史」としては扱わないという態度は、あくまでも歴史学の伝統を保持しつつ(自らの「普遍性」は留保しつつ)、相手と向き合おうとする態度であって、そこでは「尊重してすくいあげる」側と「尊重されてすくいあげてもらう」側との間の権力関係は温存されてしまうから。

僕はこの「掬いあげて尊重する」という行為の政治学を問題にすべきだと思います … 「尊重」という名の包摂は、結局のところ巧妙な排除なんじゃないでしょうか … 僕はこの尊重の政治学というものの、巧妙な権力作用に敏感でありたいと思いますね

この手厳しい…しかし、的を射すぎてる書き方。こんなのなんとなくわかっちゃいる。でも、そこをあえてつっこまれると、うむむ、となるのである。あーじゃあどうすりゃいいの?となったら、知れたこと。それは大地や大蛇など、人間以外の存在者も歴史エージェントとして、史的事実として受け入れるよう(な態度)にすること。簡単ではない。んなむちゃな!て気もする。勿論保苅も「いや、できるから」とは言ってない。問題は「態度」なのである。アボリジニの歴史をアカデミックに普遍化せざるをえない意識と、そういった普遍化を拒んで歴史時空の多元性を引き受ける意識とを同時に保ちながら歴史叙述をおこなう態度。矛盾しつつも同時に行うことが、ギャップを承認しつつもコミュニケーションの可能性を放棄しない… その真摯な姿勢 … これが凄いのである

アカデミックな歴史学者は、もう少し謙虚になる必要がある。われわれは、歴史的知識の生産を独占しているわけではない。それは不可能だし、私見では理想的ですらない。近代歴史学の歴史実践をアポリジニの過去に強要するのではなく――、アカデミックな歴史学者は過去とむすびつくさまざまな実践様式を学び、多様で多元的な歴史的実践のありようと相互に交流する術を探索しなければならない。それが、過去へと向かう異なるアプローチの、開かれて可変的なコミュニケーションを切り拓く道筋である、と私は信じている。

…なんか、うまくまとまんね。もう一回くらい書くかも… すんません